佐賀土地改良区の歴史
国営嘉瀬川農業水利事業により昭和32年に北山ダム、昭和35年に川上頭首工が完成し用水配分が一本化され、従来の四土地改良区はその目的たる取水事業の機能が失われる中で国県営事業の推進、当該事業により造成された施設の維持管理、適正な用水配分、また農家の負担軽減のために暫定的に設立した連合を解散し、四土地改良区で合併し新たな土地改良区を設立する事となりました。長い歴史の中で様々な水利慣行を乗り越え嘉瀬川水系全体の農業生産の発展のために、昭和41年9月16日佐賀土地改良区として新たにスタートしました。
1560年、現在の佐賀市鍋島町に生まれ戦国時代に多くの戦で手柄をたてた侍であります。江戸時代に入り太平の世になると、治水や利水などの事業に力を注ぎ、鍋島藩家老であった茂安公は、石井樋の建設、用水路・堤防・干拓・ため池の建設や改修など100箇所以上に携わりました。1615~1624年に造られた石井樋は、象の鼻・天狗の鼻など石で作られた施設を組み合わせ土砂を沈め、きれいな水にする工夫や流域の水害を防ぐ働きを持ち合わされています。取り入れられた水は、多布施川を通り佐賀城下の生活用水や農業用水として利用され、石井樋上流に川上頭首工が作られるまで約350年に渡り水不足や水害から佐賀平野を守り続けてきました。
その後石井樋の役目は一度終わりましたが、1993年より調査・発掘・保存などを行い2005年から石井樋が復元され建設以降4世紀立った現在も佐賀土地改良区の水運用と共に石井樋や多布施川も活用され佐賀平野を潤しています。これら数々の素晴らしい功績から「水の神様」と言われ佐賀県には成富兵庫茂安公にちなんだ地名も残されています。佐賀土地改良区では、命日である9月18日に茂安公の偉業を称え、土地改良会館内に祀ってある水神の社にて今後の佐賀平野の発展を願い「水功祭」という神事を毎年行っています。